西郷隆盛ゆかりの地を観光!【鹿児島編】
西郷隆盛、最期の地を観光! |
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幕末から明治維新にかけて名を馳せた代表的な人物として、鹿児島県から排出された西郷隆盛を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?2018年の大河ドラマ「西郷どん」の題材になったこともあり、西郷隆盛を調べられている方も多いかと思います。本記事が鹿児島県内の西郷隆盛のゆかりの地をめぐる際の参考になれば幸いです。 |
(1)西郷隆盛の生涯をチェック!
鹿児島県の西郷隆盛のゆかりの地を紹介する前にまず、西郷隆盛の生涯を振り返りましょう。
西郷隆盛は、文政10年12月7日(1828年1月23日)に鹿児島に生まれ、薩摩藩士・軍人・政治家として活躍した人物です。その名前と風貌から「西郷どん」という愛称が有名で、身長はなんと180cm!?、体重は100Kg!当時の人間としてはかなり大柄でありました。
政治活動のため借金の多かった西郷家でしたが、食に困るほど貧乏ではなく、西郷家は藩内で御小姓組に属していました。薩摩藩は他藩と比較して、特に武士の割合が多く、26パーセントを占めていました。
薩摩では、戦国の雄・島津家以来の武勇を誇り、郷中(ごじゅう)教育という独自の方針で藩士の子弟を鍛えあげていたのです。幼い西郷隆盛は、大久保利通らと同じ郷中(ごじゅう)で学びました。
(1-1)島津斉彬と出会い頭角を表しはじめる
26歳の頃、西郷隆盛は薩摩藩の殿様、島津斉彬(しまづなりあきら)(没1858年7月16 日)に仕え、頭角を現しはじめました。西郷隆盛はこの島津斉彬をとても尊敬していて、斉彬が亡くなった時に殉死も考えたほどです。
(1-2)受難も多かった…!
西郷隆盛は頭角を表すまで受難も多く、鹿児島の地から離れたこともありました…
きっかけは清水寺成就院(きよみずでらじょうじゅいん)の僧・月照(げっしょう)との関係でした。
安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて行われた「安政の大獄」の後、井伊直弼による弾圧は月照の元にまで迫りました。将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)における朝廷工作の過程で月照と西郷隆盛と信仰を深めたこともあり、薩摩まで連れて行くことになりました。
しかし、薩摩藩では、月照の取り扱いを持て余してしまいました。幕府ににらまれている人物を匿っていても百害あって一利なしと判断した薩摩藩は、西郷に「日向送り」を命じました。「日向送り」とは実質、死刑を意味しています。これは島津斉彬が生きていた頃でしたら違う結果だったと思います。
そして、西郷隆盛は日向へ向かう途中、月照と共に鹿児島湾へ身を投げます。
「月照と西郷隆盛、水死」。幕府にはそう届けられましたが、月照はそのまま水死し、西郷隆盛のみ、一命を取り留めていました。
死んだことになっている西郷隆盛は、潜伏先の奄美大島龍郷(あまみおおしまたつごう)で、菊池源吾と名を替え、奄美の暮らしに慣れ始めるのですが、その頃故郷の薩摩藩と日本の政局は絶えず大きく動いていました。
いよいよ西郷隆盛の存在が必要不可欠だと判断した藩は、文久元年(1861年)11月、西郷隆盛を奄美から呼び戻します
(1-3)ついに維新志士へ!しかし終幕までも波乱が続く
同じ年代の若者たちのリーダーとして、若いころから知られていた西郷隆盛は、1864年におこった「禁門の変」で、薩摩軍を指揮し、長州藩の坂本竜馬の仲介で、対立していた長州藩の木戸孝允と「薩長同盟」を結び、倒幕運動の中心人物となりました。
明治時代に明治新政府の主要陣の一人となってからは、廃藩置県などの改革を進め、陸軍大将・近衛局元帥を務めましたが、李氏朝鮮を巡って、大久保利通と意見が対立し政府を去りました。
その後、故郷の鹿児島に戻った西郷隆盛は、士族たちの教育・軍事訓練・開拓を進める学び舎として、「学校」を設立しました。しかし、生徒・教官たちが新政府に対して反乱・内戦。これがかの有名な「西南戦争」であり、7ヶ月にも及ぶ戦いとなり、西郷隆盛は大将として戦いましたが破れ、残念ながら城山で自刃。怒涛の生涯を閉じました。
そんな波乱万丈な人生を送った、鹿児島県内の西郷隆盛のゆかりの地をご紹介します。
(2)西郷隆盛生誕地
鹿児島県内の西郷隆盛のゆかりの地を巡る上でまず訪れたいのは「西郷隆盛生誕地」でしょう。
西郷隆盛は文政10年(1828年)12月7日に、鹿児島城下にある下加治屋町(現・鹿児島市加治屋町)に生ました。この下加治屋町からは、西郷のほか、大久保利通、東郷平八郎など、幕末・維新に活発に維新士師が多数輩出されています。
鹿児島城下全体でおおよそ、30ほどの郷中(藩士の子弟を教育するため施設)があったと伝えられている上、他の郷中の者たちと町中で出会うとよく喧嘩が起こりました。西郷隆盛も例外ではなく、13歳のころ郷中同士の喧嘩の仲裁をしていたときに、刀で斬りつけられてしまい、腕を負傷します。以来腕が充分に動かせなくなったため、武芸で身を立てるのを諦め、学問に身を入れるようになりました。
西郷隆盛生誕地
所在地: 〒892-0846 鹿児島県鹿児島市加治屋町23-1
(3)鹿児島市維新ふるさと館
鹿児島市維新ふるさと館は鹿児島の偉人たちの歴史をまんべんなく学べる場所で、中でも目を引くのは、西郷隆盛や大久保利通のサイズの軍服やコートを展示しているコーナーです。実際に着用して写真撮影ができます。
他にも西郷隆盛が主人公のドラマが2種類、交互に1日13回上映しています。ドラマの内容は西郷隆盛や、色んなロボットが出てきて歴史の話など、コラボレーションがとても面白いです。
大久保利通、西郷隆盛、坂本龍馬など著名な幕末から明治初期の偉人の展示のほか、当時の薩摩や東京の様子がわかりやすく映像・ジオラマ・展示物を交えて説明されており幕末から明治初期の偉人たちの展示物や、触って楽しむ場所もあるので、しっかり観ると明治維新に関係する知識を学ぶことができます。
維新ふるさと館バス停や鹿児島中央駅からも歩いても10分かかりませんが、16時半までに入館で17時閉館ですので早めの入館をおすすめいたします。
鹿児島市維新ふるさと館
所在地: 〒892-0846 鹿児島県鹿児島市加治屋町23-1
営業時間:AM9:00〜PM17:00
電話:099-239-7700
(4)私学校跡
鹿児島県内の西郷隆盛のゆかりの地を巡る際はぜひ、私学校跡にも訪れてください。明治6年(1873年)、鹿児島に帰った西郷隆盛は、新政府の急速な改革に異をとなえる不平士族たち学習させるという名目で、西郷派の幹部たちと共に旧鹿児島城内に「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」を設立しました。
これらの学校は総称的に「私学校」とも呼ばれていますが、鹿児島県の予算からも設立資金が拠出された「半公立の軍隊学校」でした。
特に鹿児島県令・大山綱良(おおやまつなよし)は、積極的にこの私学校を支援し、私学校徒たちを官吏に登用させ、政府への租税納入も拒否し、鹿児島はあたかも日本政府から独立したかのような姿になりました。
その後、明治10年(1877年)2月、政府の鹿児島県に対する警戒や圧力が強まり、鹿児島征伐の機運が高まると、西郷隆盛を始めとする著名な私学校徒たちが暴発して政府が管理している火薬庫を襲撃し、名高い「西南戦争」が始まりました。私学校跡地の石堀には西南戦争の際の弾痕跡が今も石塀に残っています。この石塀は、鹿児島城の厩(うまや)の周壁として構築されたものです。
私学校跡
所在地: 〒892-0854 鹿児島県鹿児島市長田町1-1
(5)西郷隆盛南洲翁洞窟(なんしゅうおうどうくつ)
「西郷隆盛南洲翁洞窟」は鹿児島県内の西郷隆盛のゆかりの地を巡る上で外せないでしょう。西郷隆盛南洲翁洞窟は西南戦争の際に6日間西郷隆盛が隠れていた場で、薩摩郡の指揮をとっていた場所でもあります。
洞窟の規模は、奥行きが4m、間口が3m、入口の高さは2.5mであり、薩摩軍と政府軍との城山攻防戦という西南戦争の最終段階において、西郷隆盛は、明治10年(1877年)9月19日から同24日未明に至る最期まで、この洞窟で過ごしました。昭和49年(1974年)、鹿児島市の記念物(史跡)に指定されました。
西郷隆盛南洲翁洞窟(なんしゅうおうどうくつ)
所在地: 〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山町19
電話: 099-286-2746
(6)座禅石
鹿児島には西郷隆盛や大久保利通が青年時代、座禅を組み、教養を積んだという座禅石が残っています。石は現在の国道3号線沿いの誓光寺の庭にあったもので、西郷隆盛や大久保利通をはじめとした当時の若き志士たちが、日夜座禅し、修行に励みました。昭和52年(1977年)、鹿児島市の記念物(史跡)に指定されました。
座禅石
所在地: 〒890-0013 鹿児島県鹿児島市城山1-45-12
(7)西郷隆盛銅像
日本初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする高さ8mのモニュメントです。
本体5.76m、土台1.21m、築山7.27mという堂々とした佇まいを見ることが出来ます。没後50年の記念の年である昭和12年(1937年)5月23日に、鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者である安藤照氏によって8年かけて制作されました。
威風堂々のどっしりとした西郷像ですが、どれもが巨漢を通り越した肥満体型であり、ドイツ人医師のホフマンから「このままでは生命の危機だ」と減量を勧められたことから、犬を連れて山野で狩猟をし、散歩の時間を増やしたりするなど、健康管理を徹底していました。
西郷隆盛銅像
所在地:〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山4-36
時間:24時間営業
電話:099-298-5111
(8)鹿児島城(鶴丸城)
鹿児島城(鶴丸城)は島津家久によって築かれた城で270年にわたって島津氏の居城として利用されました。
「関ケ原の戦い」で西軍側に属して敗北した島津氏が、徳川家康の薩摩征伐に備えて築いた城でもありますが、朝鮮出兵や関ケ原の影響で財政が苦しかったこともあり、石高77万石の薩摩藩の城とは思えないほど質素な作りでした。現在も本丸と二の丸の周囲の石垣がほぼ完全な形で残されています。
また、本丸跡に建てられている黎明館には鹿児島城のジオラマが展示されています。天守閣をもたない珍しい造りは、「鹿児島は城をもって城とせず、人をもって城となす」の精神からきています。
鹿児島城(鶴丸城)
所在地:〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山町
電話:099-222-5100
(9)西郷隆盛終焉の地〜最期の場所〜
西郷隆盛の最期の地がこの場所です。明治10年(1877年)年9月24日未明、城山を包囲した政府軍は一斉に砲撃を開始し、薩摩軍は、敵陣目掛けて岩崎谷を駆け下りました。
最後まで抵抗しましたが、西郷隆盛は腰や太ももに銃弾を受け、この場所にて自刃し、別府晋介の介錯によりその生涯を閉じました。
西郷隆盛終焉之地史跡
所在地: 〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山町
電話: 099-298-5111
(10) 尚古集成館
「集成館(本館)」は、1865年に船などの金属加工のための工場として竣工した、 現存する最古の石造風建築物です。
形状はアーチ状となっており、日本では非常に珍しい形の建物となっています。現在は、島津家の歴史や近代化事業を紹介する博物館として、江戸時代につくられた薩摩切子や、日本人が初めて撮影した銀板写真、工場として稼働していた当時の機械など、島津家伝来の資料を中心に約1万点を収蔵・展示しています。
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を構成する「旧集成館」の機械工場として、2015年7月5日に世界遺産に登録されました。
尚古集成館
所在地: 〒892-0871 鹿児島県鹿児島市吉野町9698?1
時間: AM8:30〜PM17:30
電話: 099-247-1511
(11)鹿児島観光、西郷隆盛ゆかりのお土産
西郷せんべい
西郷隆盛の焼き印が入ったお菓子です。甘い素焼きのおせんべいで、サクサクとした食感が特長的です。小さなお子様からお年寄りまで世代を問わず喜ばれる一品です。堂々とした西郷隆盛を描いたパッケージはとても目立ち、鹿児島のおみやげとして定番となっております。
西郷チョコ
西郷隆盛の親しみやすいペロペロキャンディ風のチョコです。大胆にも顔だけを切り取って販売しているので、インパクトは抜群です。
価格も手頃、サイズもちょうど良いので、鹿児島のおみやげにはピッタリです。お子さんはきっと「誰だろうこの人?」という感覚で西郷さんを見つめるはず。歴史を学ぶ良い教材にもなりそうです。
(12)鹿児島グルメも楽しもう!
何と言っても鹿児島は黒豚、さつま芋の名産地!特に鹿児島黒豚は筋繊維が細かく肉のしまりも良いです。具体的にどのようなものなのか、ご紹介したいと思います。
(11-1)鹿児島ラーメン豚とろ(博多駅デイトス店)
これを目当てに県外からお客さんが訪れるほどの人気です。見た目よりあっさりしていて、しつこくないスープが人気の秘訣。女性や脂身を気にする方でも、おいしく食べられます。
施設名:豚とろ
住所:鹿児島県鹿児島市山之口町9-41
問い合わせ:099-222-5857
営業時間:11:30〜15:00、18:30〜3:30
定休日:不定休
(11-2)黒豚おにぎり(八幡)
黒豚のとろけるような食感、鹿児島にきた際は一度は食して頂きたい地元の方おすすめの料理です。これまでの黒豚料理とは全く異なる食感で、本当に感動します。ぜひご賞味ください。
施設名:八幡 (はちまん)
住所:鹿児島県鹿児島市中央町2-4
問い合わせ:99-813-0088
営業時間:
[月〜木]11:30〜14:30、17:00〜翌2:00
[金・土・祝前日]11:30〜14:30、17:00〜翌3:00(L.O)
定休日:無休
(11-3)黒豚とんかつ(味のとんかつ丸一)
鹿児島の柔らかくてジューシーな黒豚を使ったとんかつは、鹿児島県の名物料理です。ソースをつけなくても味がしっかりしており、それだけでもう食べられると評判の「黒豚とんかつ」です。鹿児島観光の際はぜひお召し上がりください。
施設名:味のとんかつ丸一
住所:鹿児島県鹿児島市山之口町1-10 鹿児島中央ビルB1F
問い合わせ:099-226-3351
営業時間:11:30〜14:00、17:00〜21:00
定休日:日曜日
(12)東京にもある西郷ゆかりの地
東京上野の西郷隆盛像
「上野の西郷さん」と呼ばれ100年以上も国民に愛されているこの西郷隆盛像は東京都台東区上野の上野公園に建っています。この西郷像は高村光雲の作品であり、明治22年(1889年)大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、吉井友実ら薩摩藩出身者が中心となって建設計画が始まりました。
宮内省より500円(現在の価格では1,000万程度)を下賜され、さらに全国2万5千人余の有志の寄付金によって建立され、除幕式は、西郷の死後21年を経た、明治31年(1898年)12月18日に行われました。
施設名: 西郷隆盛銅像
住所:〒110-0007 東京都台東区上野公園
営業時間:AM5時?PM23時
鹿児島の西郷像と、上野の西郷像を比べて見るのも面白いかもしれませんね^^
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